2008年3月31日月曜日

ぶどう園の薔薇


ぶどう園の周りには薔薇が植えてあるそうな。
ボルドーの話である。

ぶどうの葉の緑とのコントラストがきれいだからというような優雅な話ではない。
ぶどうにつく虫を早く発見するためだとのこと。

虫はまず薔薇を蝕み枯らすので、薔薇を見ていれば
手遅れにならないうちにぶどうを助けることができるということらしい。

物事にはしらないと、綺麗とか勘違いして、
それはそれで無知の知は幸せなことだとも思うけど、
ちゃんと知っていると、より深く楽しめることがある、
ということを思い出す。

旅行とかに行くにはやっぱり事前準備が必要ね。

2008年3月29日土曜日

第二外国語もやる人のほうが第一外国語もよくできるようになるという常識



海外で日本語を学ぶのは日本企業に就職したいからではなく、
日本の漫画が読みたいからだそうな。
中国ではちょっと前までは日本企業への就職を希望して
日本語を学ぶ学生が多かったけど、最近ではすっかり英語が主流のようですね。
このあたりにアジアにおける日本の相対的な地位低下を感じるものの、
まぁ、そんなものかとも思いながら。
ヨーロッパでは日本語に興味を持つこと自体が明確な動機付けがなかったところに、
漫画への情熱が湧いて来ているってことですね。
それはそれでとても素敵なような気がする。
オランダ人の知人に言わせると、5か国語までは普通のことだそうです。
インド人の知人も3か国語までは常識と言ってましたね。
日本人とアメリカ人ってこのあたりのセンシティビティビティが低いですね。
自戒もこめて。
バイリンガル、というのが特殊な才能のような取り扱いで考えていると、
それはけっこう常識でなかったりする、世界とは広いものである。
日本人にとっては外国語ができることは比較的特殊技能でも、
そうではない人たちは意外と多く、逆に日本語の特殊性に甘えて生きていると、
痛い目に遇うような気がする今日この頃。
先のインド人やオランダ人にとっては、たかが外国語、なのだそうな。

中国語の勉強が進まないのだけど、
こういう言葉を見ると頑張ろうという気持ちになる。
でもなかなか難しい。独学では発音、ではなく発声の成否が難しい。。
でもやっぱり、あいつらの言っていることは理解してやりたい。

2008年3月27日木曜日

コーギーお仕事中 サントリープレミアムモルツ

これはかわいい。ビールに反応しちゃうところがものすごくかわいい。
他人事ではない(笑)

2008年3月21日金曜日

溶ける街透ける路/多和田 葉子



うん、気持ちの良い旅行エッセイでした。
なんというか嫌味がない。詩人らしい繊細な単語選びのせいなのかも?

とくに海外旅行願望が高い今のような時期には楽しい。
さいきんお気に入りのテレビ番組である
「NHKの世界ふれあい街歩き」
http://www.nhk.or.jp/sekaimachi/
と似ているタッチ。

あくまで自分自身の経験目線で、余計な観光情報は入らない。
むしろ生活者の目線に近い中でのちょこっと異邦人感覚での記述は、おいらがあこがれる海外旅行そのものである。素敵。ドイツ在住ならではなのだろうなぁ。
記述の中心はタイトルにかかわらず、街そのものではなく、街に生きる人たちとの交流で、街が語られるのは筆者の主観と各街々の生活者からの情報。

ナント訪問時の「ナントの勅令ってなんだっけ?」というやり取りは記憶に深く残る。
飾り気がないやりとりを素直に記述しているように見える文章で、心地よい。

2008年3月20日木曜日

きみが天才を演じるならば、天才になるのだ

サルバドール・ダリが自分の手記に残した言葉
「サルバドールよ、きみが天才を演じるならば、天才になるのだ」
なかなかの至言。けっこう感動

天才とは所詮誰かの評価に基づくもの。
天才と認められて人は天才になる。
天才とはどういうものか、という定義があってこそ、僕たちは天才になれる。
逆に言うと、天才とはその程度のものでしかないのかもしれない。
天才と馬鹿は紙一重。
その言葉の的確さを改めて知る感じ。
そこに戦略性がなければ天才にはなれないのか。

天才を意図的に目指すということは、意外と簡単にいけそうに感じる。
しかし、そもそもの才能がない僕たち凡人は、せいぜいが変人と呼ばれて人を挑発するくらいしかできない。
そういう意味では、天才と呼ばれるフィールドはかなり狭い概念で、「才能がある人のうち、意図的に天子と呼ばれたいと考える人」となるのか。

いやはや、天才とは難しい。
なぜなら意外と俗物性を残すことが必要になるからである。。