2007年11月4日日曜日

過去の成功体験に基づく思考停止

昔から素朴な疑問がある。

その疑問はここに記載されているとおりで、どーして市場が拡大し続ける前提で技術には投資されていくのだろうというものである。

やっぱりそうだよねぇ、という感じ。

2倍の生産能力を持っても市場は2倍にはならないはず。

投資計画がお金だけを基軸にしてはいけない典型ですね。

前提が狂うと投資計画は成り立たないので。

エントロピーは無限に増大するかもしれないけど、ロングテールな感じで収斂していくもの。

がん細胞が無限増殖したとしても、宿る肉体が限界点である。

生産物も消費が限界点になり、いずれ収斂するものだものね。

でも錯覚が生じる、なぜか。

バスタブカーブを超えたフレームワークがないと、難しいのかなぁ。

既存の概念は、そこに限定的な市場が前提になっている。

グローバル化の進展に伴い、一見限定解除になっている。

が、それはパイが大きくなっただけ。

そこに知識や情報の粘着性とスピード変化の概念が絡んできているので、既存のフレームワークでは捕らえきれないのかもしれない。

この問題はディスプレイだけではない。

サービス事業体でも同様にことが起きること間違いなく、すでにIT業界ではSE費用の値崩れが起きている。

コモディティ化は資本主義の宿命だから仕方ないとして、それを見越さずに次はないわねぇ。

もう少し考えてみよっと。



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思考停止というリスク
2007/11/02 14:12  仲森 智博=編集委員
日本企業の特質ということでよく挙げられることの一つに、「リスクをとらない」ということがある。現場、あるいは技術者個人のレベルでいえば、かなり革新的だが未知数的な仕事もあるように思う。けれど、往々にしてそのような案件は、いざ投資が必要な局面になると棚上げされてしまう。日本的組織というもののなせる業か、はたまた経営陣のマインドの問題なのか。
それでもときどき、「けっこうリスクがありそうなのによく思い切ったなぁ」と思う事業計画に出くわすことがある。その決断に独自性があるなら、まあよい。それはハイリスク・ハイリターンな「賭け」なのであるから。ところが、いつもそうだとは限らない。しばしば、多くの企業が大挙してハイリスクとしか思えない判断を下しているように見えてしまうことがある。ところが話を聞いてみるとたいがい、当事者たちには「リスクをとっている」という意識がないようなのだ。


横並び
皆が手を携えて同じハイリスクな道を選択すれば、それが失敗しても「隣との差」はつかない。それが経営陣に安心感をもたらし、リスクの大小に関して熟考することをやめさせてしまうのか。だが、その結果として業績が低迷すれば迷惑を被るのは技術者である。自社の体力を超えるほどの痛手を被れば、外資系ファンドの餌食にだってなりかねない。
では、リスクを見事に乗り越えてめでたく成功すればどうか。みなが成功するわけだから、リターンは少ない。つまりハイリスク・ローリターン。まったく割の合わない話である。
その典型例として、以前にも少し触れさせていただいたディスプレイ業界における顛末を取り上げてみたい。1993年ころの話である。
当時、液晶業界は大画面のカラーTFT液晶パネルの大幅増産に向け着々と準備を重ねていた。大手の国内総合エレクトロニクス・メーカーはほぼ全員参入し、これに中堅メーカー、果ては韓国勢、台湾勢も加わるという大陣容がそろっての決定だった。そのとき日経エレクトロニクスの記者だった筆者は、さっそく各社を回って投資額、生産予定数量を聞き、「どれくらいのシェアを確保する予定なのか」を尋ねてみた。
するとどの企業も「巨額を投じて勝負に出るからには20%以上のシェアを目指すのは当然」という。「いやいや、うちは30%以上を狙います」などという企業もある。そこで、そのすべてを足し合わせてみたら、何と200%を超える数字になってしまったのだ。


一斉参入のアルゴリズム
これは大変なことである。計画通りにことが運べば、業界全体では自分たちが想定している2倍以上の供給能力を持ってしまうことになるわけだから。しかも、「20%以上」などと目論んでいた各社のシェアは、10%ほどにまで萎んでしまう。
ことのほか低いシェアしか確保できなかったメーカーは、隣の顔を見ながら必死にアクセルを踏むだろう。メディアも調子にのって「大増産、いよいよ本格普及へ」とか盛り上げる。
関連業者だって黙ってはいまい。この少し前、ある国際会議の懇親会で京セラ前会長の西口泰夫氏に偶然お会いした。当時は事業本部長といった役職で液晶事業の統括をされていたように記憶する。その西口氏が会場をぐるりと指差してこう言われた。「ほらほら見てごらん、ここは死の商人の巣窟だよ」。死の商人とは本来は武器商人のこと。こちらでは「敵は最新鋭の武器を配備しましたよ。おたくも対抗しないと」と煽り、あちらでは「もう敵は対策を打ちました。ここで増強しないとパワーバランスが崩れます」とけしかける。その姿を当時の設備メーカーのセールストークにダブらせて、こんな冗談をおっしゃったのだと思う。
こうして、増産機運は否が応にも盛り上がり、それにメーカーが乗れば、どんどん生産能力が増えていく。けれど、当時のように10インチ型で1枚10万円もしようかという液晶パネルに、そうそう買い手がつくとは思えない。
その先に見えるのは、悲惨な値崩れだ。かつて長く日経エレクトロニクスの編集長を務めていた西村吉雄氏は、この現象について面白い指摘をされていた。「自由市場に任せると、米は余れば底なしに値段が下がっていく。半額にするからと言っても食べる量を2倍にしてもらうことはできないからだ。半導体は産業の米などというけど、その価格決定メカニズムは、米と実によく似ている。少々値段が下がったからといって、需要は増えない。だから、底なしに値段が下がっていく」。ディスプレイも、事情は半導体と変わりない。


考えずに信じる?
これはえらいことだと、各社の担当者に話を聞いてまわった。データをみせると、供給能力が激増することは認める。価格が大幅に下がるだろうことも認める。けれど、それはコスト削減努力と量産効果によるものであって、決して「買い手がないから」という種類のものではないと言い張るのである。「カラーTFT液晶パネルは、夢のディスプレイなのだ。こんな素晴らしいものが売れないはずはないではないか。引く手あまたに決まってる」と。
でも、それは理屈に合わないだろう。作る端から売れていくのであれば、値段が下がることはない。「いや10万円でも買いたいという人はいくらでもいるのだけど、原価が下がったから5万円で売ります」などと、理由のない廉価販売を実施した話など聞いたことがないのである。売れるのであれば、値段は下がらない。値段が下がるのであれば、それは供給過剰だから。これが市場原理というものだろう。それとも、こと液晶パネルに限って、市場原理を超える何かが起きるというのだろうか。
結局、どのメーカーの方と話しても、議論はかみ合わないまま平行線で終わった。ほとんどの前提条件は是認してもらえても、「余ったあげくの価格暴落」が起きるということだけは決して認めてもらえないのだ。そのとき頭をよぎったのが、「思考停止」という言葉だった。「もう、投資をすることは決めた。その先のことは考えたくない」ということではないかと、不遜にも疑ってしまったのである。


アクセル「べた踏み」
そして、理屈通りの結果が日本メーカーを襲った。1994年後半から国内の新鋭工場が続々と稼動を始め、パネルの値段はどんどん下がっていった。そのうち、一部メーカーが生産調整を始めたとの噂も流れ始める。韓国や台湾のメーカーも本格量産を始め、そのことが市況を一層悪化させていく。
 もっと悲惨だったのは、この数年間にすべての国内参入メーカーが被った「火傷」が、経営者の投資マインドを冷やしてしまったことだ。経営者たちは、この投資がリスキーなものだとは思っていなかったのだろう。それだけにショックが大きかった。そのショックのあまり、過剰に萎縮してしまった。そう思えてならない。
一方、同じ火傷を負ったはずの韓国メーカーや台湾メーカーは、それをものともせず、後発というハンディすら乗り越え大型投資を続けた。参議院議員の藤末健三氏が指摘されているように、韓国メーカーには政府系融資という強い味方もあったようだが
ある業界関係者は、日韓の投資行動の差について、後日こう説明されていた。「あれ以降、日本は腰が引けてアクセルとブレーキを交互に使うようになった。つまり、市況が好転すればアクセルを踏み、悪化すればブレーキを踏めばいいと思ったんですね。これがマズかった。いざアクセルということで投資をしても、実際に生産ラインが稼動して供給量が増えるのは1年後か2年後。ところがそのころには市況が悪化している。結果として、逆、逆になってしまうわけです。一方、韓国や台湾のメーカーはひたすらアクセルを踏んだ。日本がブレーキをかけるたびに、その差が縮まり、やがては抜かれてしまった」。
別のアナリストの方も、この説を支持しておられた。「そうそう、その通り。もっと言えば、半導体も同じ。まったく同じパターンで、日本メーカーは韓国メーカーに抜かれてしまったというわけです」。
そして気付けば、今日のような状況になっていた。日本の技術者が知恵と労力の限りを尽くして育て上げ、ついには量産にまでこぎつけた液晶パネルは、それがようやく「稼げる」ところまで成長したとき、その売り上げの多くを海外メーカーに渡してしまっていたのである。それでもシャープのように、強豪の一角を死守しているメーカーもある。けれど、1990年代前半に高々と量産宣言をしたメーカーの多くは、大画面液晶パネル事業の縮小や譲渡、撤退を迫られることになってしまったのだ。


歴史は繰り返す?
 こんな古い話を持ち出して、ぐちぐちと言い立てる気になったのにはワケがある。最近「なんか似ていないか」という話を聞いたからなのである。それは、今秋の展示会などでも話題をさらった有機ELパネルにまつわるものだ。
 展示会で有機ELパネルのテレビを実際に見て「これはスゴい」と感じた。長い年月をかけてここまでこの技術を育て上げた方々の努力に、大いなる拍手を送りたい気持ちになった。けれど、それはそれ。その興奮をそのままに、テレビのニュースなどが「ポスト液晶」などと持ち上げている真意が、私にはよく分からない。このディスプレイが現在の液晶テレビやパソコン用の液晶モニタに取って代わるとは、どうしても予想できないのだ。
その疑問をある技術者の方にぶつけてみると、「でも本当にきれいでしょ。あれを見たら絶対に欲しくなるはず。まさに夢のディスプレイです」などと、あのころによく聞いたような答えが返ってきた。同じことを弊社の記者に聞いてみると「まあ成功するとは思いますよ。まだ高いけど、アーリーアダプターなら飛びつきそうな価格です」などという。けれど、4チャネルのステレオ・セットとか民生用DAT(デジタル・オーディオ・テープ)とか、すごいのでアーリーアダプターは買ったけどそれで終わってしまった製品はいくらでもあるのである。
別の方からこんな話も聞いた。「有機ELの材料メーカーも大増産を決めたようです。日本メーカーだけでなく、複数の韓国メーカーも量産に乗り出そうとしていますし」。要は「大勢やっているんだから、きっと大丈夫なんじゃない?」ということなのだろう。これまた、あのころに聞いたようなセリフである。


強みと弱み
もう一つ、有機ELディスプレイが成功する要素としてよく語られることがある。それは「自発光」ということだ。液晶パネルの各画素は単なる光シャッターだから、必ず光源とセットで使わなければならない。けれど有機ELパネルは、各画素が発光する。これがスゴイというわけだ。光源がいらないから薄く、軽くなるという説明はわかる。けれど、展示会の説明員に言われた「自発光だから画がきれいでしょ」というのは、必死に見たけどよく分からなかった。そうでないことは知りつつも、私の目には液晶だって各画素が自分で光っているように見えてしまうのだ。
逆に「自発光はダメ」と、その問題点をずっと以前から指摘されていたのが、日経マイクロデバイスの編集長を務めていた林裕久氏である。その理由はこうだ。液晶パネルの場合、各画素に駆動ICを通じて供給する電力は、光シャッターを動作させるだけに使うから実に微々たるもの。ところが、自発光のディスプレイでは、発光するために必要な電力をすべて駆動ICから供給しなければならない。このため、自発光型用の駆動ICは液晶パネル用のそれより必ず高価になる。
パネル本体の方に目を向けると、有機ELパネルは液晶パネルと同様にTFT基板を使う。この点に注目し「有機ELは液晶で構築した技術を流用できるので、成功の可能性が高い」とみる向きもある。けれど、そのことは同時にネックでもある。有機EL用の基板が、液晶パネル用基板より安くなることはあり得ないことを示しているからである。
基板のコストは頑張って液晶並みで、駆動ICは高価。製造技術の修練度は、液晶パネルとは大人と子供ほど違う。となれば、必ず有機ELパネルは液晶パネルより高くなる。それでも液晶パネルに対抗できる理由として挙げられるのは、その薄さと画質の高さだろう。しかし、市販の液晶パネルが、その薄さや高画質を達成するために投入可能な技術をフル活用しているとは思えない。コスト競争力を考慮し、「可能だが投入していない」技術が相当にあるようなのである。実際、ある液晶パネル技術者は「学会レベルのものを含め、先端技術をコスト度外視で投入すれば、相当に薄くてきれいな液晶パネルができる」と胸を張っておられた。


ムービング・ターゲット
そもそも、液晶パネルと有機ELパネルでは、投入されている開発資金と技術者の数が全然違う。車輪や車体の能力はともかく、逃げる車の方には追いかける車よりケタ違いに馬力のあるエンジンが搭載されているのだ。この差こそ決定的だと個人的には思っている。今の液晶パネルを見て有機ELパネル陣営が「いつまでにこれくらいのパネルを」と勝利のシナリオを描いても、相手は「ムービング・ターゲット」。止まっていてはくれないどころか、しばしば予想を超える進化を遂げる。
それに立ち向かう勇気を賞賛したい気持ちは大いにある。けれど、投資の判断を誤れば、大きな打撃を被るのは経営者だけではない。技術者を含むすべての従業員なのである。くどいけど、だから挑戦はダメだと言うつもりはまったくない。ただ、「本当のリスクは思考停止にある」ということだけは認識しておくべきだと思うのである。
かつて液晶パネルは、大量流血しながら値段を下げ、ついにはブラウン管ディスプレイを駆逐するまでに成長した。その再演を夢見るのはいいけれど、この「リプレイス劇」には、大きな幸運があったことを忘れてはならない。液晶パネルは、その成長期に「ブラウン管では到底なし得ない」アプリケーションに恵まれたのである。
カラー液晶パネルが出始めたころ、ある液晶技術者がこんなことを言っておられた。「液晶パネルの難しさは、ヘタな練習曲を聞かせてお金を払ってもらわなければならないことだ」と。当時の液晶パネルはブラウン管の表示性能に遠く及ばず、しかも相当に高かった。それでも「買ってやろう」という顧客が現れなければ先には進めない。その、気前のいいパトロンの役割を果たしたのが、当時急速に売れ始めていたラップトップ・パソコン、ノート・パソコンだった。
有機ELパネルも同じだと思う。いきなり液晶パネルと競合するのは相当に難しい。その成長期を「授業料の高い学校に子供を行かせていると思って、赤字を覚悟で何年でも耐え抜く」という手はある。けれど、短期的な利益確保を重視する今の経営者と株主にその度量はあるのだろうか。それができる自信がなければ、「ポスト液晶」などというメディアの掛け声は聞き流し、「液晶パネルでは到底なし得ない」独自のアプリケーションや、光源などディスプレイ以外の展開を血眼になって探し出すほかにないだろう。それはそれで重い課題だと思う。
そんなことを今さら言わなくても、参入メーカーの方々はよく分かっているのだと思う。「あまり評判になったものだから、ついついリップサービスをしてしまっただけ。ぼちぼちいきますから」ということかもしれないし、意外や「まだ内緒だけど、すばらしいアプリケーションを見つけたんだ」ということなのかもとも考える。けど、あれだけの努力を重ね、あれだけのものを作り上げつつ、事業継続すらままならない状況に陥る場面を目撃してきた身からすれば、あのころの悪夢が頭をかすめて心配で心配でしょうがないのである。いつもながら、私が心配したところでどうなる話でもないのだが。
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