2008年9月6日土曜日

下がり続けるIT関連業務の賃金

まぁ、製造業としては比較的自然な流れである。
製造業として捉えれば下記のような分析になるわねぇ。
そういう分析の流れが世の中に蔓延しているのも事実。
でも、そうなのかしらん?
作りたいものが、目に見えない「システム」であるのに、どうして実施前から見通せる?
それが見通せるなら、「設計」なんてタスクは要らないのだよ。
顧客のコミットメントとかの上滑った分析では状況を単純化しすぎているのだね。
作っているものは、「インビジブルな一点もの」なのだ。
だから、要件定義とか設計とかをちゃんとしないと構築とか開発とかできないのだよ。
それゆえに「価値がある」と過去は見なされてきた。
では、なんで価格が下がるのか?要するに「効果」が見出せないからである。
すなわち「価値が無い」だけである。
「価値を売る」という努力が無いからね、インテグレータに。
それに顧客の側ももう「一点もの」なんか要らないのだ。
だから、価値が低減し、ひいては単価が下がるのである。
顧客の期待値がコモディティ化に変化しているだけ。
エンジニアリング=製造業という単純な思い込みが問題だわね。
人間がやる作業なので、人によって価格にばらつきがあるのは当たり前で、そこに価値があればその価格が妥当なのである。この人は総研出身らしいけど、総研で何を見てたんだろう??
「単価」という概念は本来そのようにできている。
なので、時間単価と工数は異なり、そこから見出される価値により価格は変動する。これが正しく機能すれば、それでよい。それだけのことである。
高い価値があるものは高い値段で売るのだ。
結果なんか出なくても価値を感じさせれば、サービス業はそれで良いのだ。
「規模の経済」のロジックで分析するだけでは片手落ちなのだ。
そうでなければ、タクシーだって散々時間かけて大量にお金をもらうと怒られる。
特急電車のパラドックスで、サービス提供時間が短くなるほど価値が出て価格が上がる。
でも距離が長くなると値段が上がる。この2つのミックスである。
システム構築が一点ものとしての価値を認められた時代は高く売れたものが規模の経済へと移行している中で「職人」として認められた個人の価値が「ライン工」の価値に置き換えられている過程だのよ。
そう捉える方が素直だと思うなぁ。
だって、下記の説明では、「最近下がっている」説明になっていない。
そもそも、過去はそんなに高い目的意識を持ってシステムに取り組んだ顧客はいたのかい?
そういう顧客は偉くなっちゃって、後進を育てないからこんなことになるとでも?
まぁ、そういう面は否定できないけど、それだけに解を求めるのはいやはや。
もっと、構造的で業界的な大きな問題でしょう?
コンサルティングを引き合いに出しているけど、コンサルタントの価格まで下がっているの?
下がっていないんじゃないの?そこには価値があるからでは?どうでしょう??
高度成長期(だいたい知らんだろう、この人)のSEなんて、比較してどうするのだろう。
まぁ、製造業として捉えるなら比較をしちゃうんだよね。
だけど、製造業ではないのだ、SEはサービス業なのだよん。
いっぽうで、顧客については、目的意識ではなく、ついに理解できないほどシステムが複雑化しているのである。技術が進歩するとこういう弊害を招く。選択肢が無数にあり、方法も手段も好きなように選べる。だからこそ、設計なんてしていられないのだ。この矛盾。ここが問題の本質だろうよ。
それを作る側も頼む側も理解し切れていないので、昔流のやり方で行くと落とし穴にはまる。
そういうことであって、「目的意識」というインビジブルで根性論みたいな言葉で、さも論理的なように語るのは非常に違和感がありますね。
だいたい、顧客に目的意識とゴールが明確に定義できるんだったら、あんたみたいなコンサルタントなんちゅう仕事はあがったりになっちまうだろう?という疑問は持たないのかなぁ。。
さはさりながら、SEの単価は下がっていく。
ということで自分の昨今の課題に触れている内容だったので期待したけど、がっかり。。
共犯なんかではない。時間単価そのものに問題がある、という認識に問題がある。
製造業ではないのだ、SEはサービス業なのだよん。
ちなみに、製造業だと捉えるなら、こんなに工賃の高いエンジニアは要らない。
エンジニアリングとしての完成度と成熟度が低いことに甘えているだけ、といえる。
でもまだ良いのだ、その程度には価値があるので。
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希薄な目的意識と、時間単価の"共犯関係"
下がり続けるIT関連業務の賃金
http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20080818/168189/
2008年8月28日 木曜日 クロサカ タツヤ
システムエンジニアの時間給は5年で約14%減
給与や賞与の合計額を労働時間数で割った時間給。厚生労働省の「賃金構造基本統計調査」を基に、2002年を100としてシステムエンジニアの時間給を算出すると、2007年は86.3にまで下がっている。プログラマーの時間給も同様で、2007年は86.7となる。デフレが進んでいるとはいえ、全産業では2002年の100に対して2007年は92.5だから、IT関連の落ち込みは目立つ。IT(情報技術)による生産性向上が付加価値を生んで労働対価を押し上げる――。そうはなっていない現状が浮かび上がる。
 打合せが長引きがちで、タクシーを利用することが少なくない。渋滞して料金メーターが回るたびに心の中で小さなため息をつくのも事実だが、最近はそうひどい渋滞に巻き込まれることもあまりなく、一応納得できる。
昔から肩こりがひどく、時折マッサージを受けている。都内だと10分につき1000円前後。1時間も受けるとちょっとした贅沢となってしまうが、終わった後は肩が軽くなり、満足度は高い。
タクシーやマッサージのように、時間をかけることで一定の成果が得られるサービスなら、時間単価でチャージされることに違和感はない。反対に、時間を費やしても本当に成果が得られるか分からないサービスでこのビジネスモデルを適用されると、ユーザーとしては気が気でない。何をいまさら、と言われそうな当たり前の話だ。
ところが、そんな当たり前がまかり通らない世界が、日本の企業社会にはある。例えば政府系のプロジェクトでは、業務の中身に関わらず単価と工数による見積もりがベースだし、システム構築の世界でも同様の姿をしばしば見かける。かくいう“流しのコンサルタント”たる私も、一曲いくらではなく、時間単価で動くことがままある。
調査業務のように、一定の時間を費やせば、前に進む性質の作業なら、まだ理解はできる。だが経営戦略の立案や、事業の売却・買収のような、時間と成果の相関性が低い業務の場合、少なくとも時間単価だけで考えるのは無理がある。それでも、時間単価とそれ以外の方式(固定の報酬や成功報酬など)を組み合わせるようなビジネスモデルが受容されるケースは多くなく、相変わらず時間単価と工程数が跋扈しているのが現実だ。
こうした状況に陥る理由として、まずユーザーの側でゴール(やりたいこと、達成したいこと)が明確になっていないことが挙げられる。それこそ「何を、なぜ、どうやって?」というごく一般的な“5W1H”の問いでさえも、定かでない。大抵はどこかで自社都合が含まれていたり、何らかの背景や制約条件が目的に先立っていることが多い。しかも請け負った側は、当初はそれを教えてもらえず、後になって進捗が滞ってからデッドロックとして表面化する。
行き先を告げずにタクシー乗りますか?
ゴール不在とコインの裏表の関係にあるのが、プロジェクトの価値評価の曖昧さという問題である。ゴールが定まっていない以上、そのゴールに対する価値評価もできない。価値が分からない以上、それにどれくらいのコストを費やせばいいのかも分からない、ということである。つまり、原価計算ができないのだ。
冷静に考えると、ヘンだと思う。要は、タクシーに乗ったはいいが、行き先がはっきりしないまま走り出しているようなものである。メーターは回っているけれど、最終的にいくら取られるか分からない。本当に乗客としてそれで不安はないのだろうか。
言うまでもないが、こういった類のプロジェクトは、大抵失敗する。私自身、これまで様々な案件を経験してきたが、成功するプロジェクトは例外なく主体的にゴール設定が明確化されており、反対に失敗するものは曖昧だった。
こうした経験から、目的意識の希薄さに端を発する様々な問題と時間単価というビジネスモデルは、一種の“共犯関係”にあるという結論に私は達している。
ゴール不在の状況に、時間単価の考え方は馴染みやすいのだ。目的意識が希薄でも、「とりあえず○○さんあたりを、△△時間くらい囲い込む」という時間単価の考え方を持ち込むと、ひとまず「なんとなくのプラン」が生まれるのである。また場合によっては、その○○氏の能力・評判によって「なんとなくの説得力や信用」さえ発生させてしまう(連載の第2回目で指摘した「プロマネ・プロデューサー待望論」の一種である)。
「なんとなく」が生む不幸
この「なんとなく」が発生する傾向は、IT(情報技術)システムの構築を伴う業務に比較的目立っているように思う。おそらく、情報システムはその要素となるハード、ソフトの価格が分かりやすいため、詳細な目標設定や事業設計をせずとも、「なんとなく」がさらに「それらしく」見えてしまうのだろう。
しかし検討が進めば、中身は明確化してくる。すると、自分たちが作ろうとしていたシステムについて、予算の過不足はもちろん、そもそもの必要性や可能性(身の丈にあっているか、など)が見えてくる。ところがプロジェクトは既にスタートしている以上、この時点で全面的な見直しを余儀なくされたら、そこまでの稼働はサンクコスト(回収できない費用)としてすべて捨てざるを得ない。当然の帰結とはいえ、悩みどころだろう。
それでも、勇気をもって途中で引き返せるなら、立派だ。実際には、最後まで問題から目を背けたままプロジェクトを進めてしまい、まったく使いものにならないITシステムが出来上がる。こんな話は、残念ながら枚挙に暇がない。最近ではユーザーとシステム構築に携わったベンダーの間で訴訟にまで発展することさえもあるようだ。
結論としては、ユーザー自身が意識改革し、自らマネジメントしていく姿勢を明確にしていくしかないと思う。すべての起点はユーザー側にある以上、そこが率先して変革するのが筋というものだし、ユーザーの意識が高まらない限り、ベンダーも変わらないはずだ。
その時に時間単価というビジネスモデルだけでは、おそらくプロジェクト全体はマネジメントしきれないはずだ。それにユーザー自身が何を達成したいのかを明確にできるようになれば、時間単価などのビジネスモデルも含め、おそらくソリューション実現の方法や調達そのものを大きく変えられるだろう。
新生銀行が徹底した業務機能のモジュール化と明確な全体管理によって、システムの構築・運用に要する時間とコストの大幅な圧縮やアウトソーシングに成功した話は有名だ。こうした取り組みも可能になる。
専門家に投げっ放しではダメ
これは、ITに詳しい、詳しくないというレベルの話ではない。「自分たちのやりたいこと、達成したいこと」を明確化する段階も業務の一部だ、という認識の問題だ。例えば、コンサルタントやベンダーから提案を受ける前後の段階で、彼らとの細かなやりとりが発生しているはずだが、既にそれはゴールのイメージを固める作業の一部であり、その時点からプロジェクトは実質的にスタートしているのだ。ならば、場合によっては提案にもフィーを支払う、という感覚があっていい。
裏返せばこれは、「誰かに頑張ってもらえば何とかなるだろう」という甘えとの決別でもある。実際これまで日本人は、様々な業務を気合と根性で乗り切ろうとし、またそれを取引先にも押しつけてきた面がある。工場では、業者も含めて寝ずに働けば製品が完成するように。あるいは足で稼げと無理な営業活動を強いたように。
高度成長期は、わざわざゴールを設けずとも、このやり方で成果をあげることができたのも事実かもしれない。この強烈な成功体験は、まだまだ企業に染み付いているように思う。時間単価と工程数で効率を計ろうとする思想が残っているのも、その証左のように思える。しかしそうした考え方こそが、実は日本におけるITの土壌を奪っているのではないか。
だとすると、やはりITを使いこなす側であるユーザーがしっかりしなければ、何も変わらない。それこそユーザーの主体的な意識が低ければ、たとえベンダーたちに悪意がなくても、彼らに我田引水され、その言いなりになってしまう。それでは不効率なだけでなく、本来作るべきものが作れなくなる危険性が高まる。このところあちこちで頻発する事故や品質低下も、実はそんなところに一因があるのではないだろうか。
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